เข้าสู่ระบบ鬼塚の名前を聞いた夜から、一週間が過ぎていた。
(……まだ、足りない)
毎日、企画を組み直しては行き止まりにぶつかった。
若者に向けて、職人の手元を映したショート動画を毎日発信する案も考えた。 素材の透明性を前面に出したパッケージリニューアルも。 都内ポップアップで、実演と試食を組み合わせた体験施策も──。どれもきっと悪くはない。むしろ、今の市場には確かに刺さる。
それでも、鬼塚には届かない気がする。 胸の奥が、氷を押し当てられたみたいに冷えた。 勝てない未来を想像するだけで、足元がわずかに揺らぐ。企画でも数字でもなく、顧客の欲望そのものを読むあの男に。
喉から手が出るほど、彼が今、何を見ているのか知りたかった。 焦燥を抱えたまま、私は資料をつかんで家を出た。 少しでも空気を変えたくて、会社近くのブルーオーク・コーヒーへ向かった。 店内には焙煎の香りが漂う、落ち着いた米国発のコーヒーショップだ。いつもより少し早い時間。
8時09分。 通勤の人たちのざわめきが、逆に落ち着く。私は窓際の席に座り、紙カップを手のひらで温めながら資料を広げた。
(……足りない。このままじゃ、鬼塚に届かない)
そんな焦燥を噛みしめていた、そのとき。
「……朱音」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
顔を上げると、
ガラス越しの朝日に照らされて── 晴紀が立っていた。黒のスーツ、少し乱れた髪。
通りすがり、じゃない。 ここを探して来た顔だった。「少し……話せるか?」
私は息を吸い込み、表情を整えた。
「……どうぞ」
晴紀は向かいの席に腰を下ろす。
カバンを置く仕草さえ、なんだか緊張していた。「どう? うちの企画」
彼のこんなに柔らかい声を聞くのは、いつぶりだろう。
かえって、心のどこかが逆撫でされる。「……今、取り掛かってるわ」
「いずみが鬼塚っていう人を連れてきた。すごい人らしい。
店に立ったり、客と話したり、職人と一緒に和菓子を作ったりしてる」言葉の一つひとつが、嫌でも胸に刺さる。
(本気ね、鬼塚……顧客に憑依するマーケターが動いたら、普通は負ける)
手の中の紙カップが、少しだけ熱く感じた。
「それで何?」
精一杯無関心を装う。でも、喉の奥がひりつく。
(負けたら──)
(いずみの、あの勝ち誇った笑顔を見ることになる)その光景を想像しただけで、胃がきゅっと縮んだ。
気づけば、握った拳に力がこもる。「……本当は、言うべきじゃないのかもしれないけど」
その一言で、喉の奥がひゅっと狭まった。
胸のどこかが、嫌な予感にきゅっと縮む。 「え……?」聞きたくないのに、続きを待ってしまう。
「俺は君に勝ってほしい。一緒に清晴堂を復活できればって……ずっと思ってた」
理解より先に、思考が一瞬まっ白になった。
次に来たのは、胸の奥をつかまれるような鋭い痛み。 紙カップがきしむほど指に力が入り、呼吸がひとつ止まる。(そんな未来を……? 本気で? 今になって、どうして……)
胸の奥がぎゅうっと痛む。
それが希望か怒りか未練か、自分でも判別できなくて。思わず視線をそらした。
それでも足りなくて、指先が無意識に袖口をぎゅっとつまむ。 「……そんなの、信じられると思う?」「それでもいい。……勝ってほしいから、鬼塚の案を教える」
(……喉から手が出るほど欲しい)
(だけど、それを知ったところで勝てるわけじゃない) (鬼塚と私では──戦い方そのものが違う)「必要ないわ」
ゆっくり首を振ると、晴紀の目がほんの一瞬だけ沈んだ。
「……そうだよな」
その寂しさが、また私の心を少しだけ揺らす。
でも揺れている場合じゃない。本当は──一切、頼りたくなんてなかった。
彼の助けを借りるのは、六年前の痛みをもう一度飲み込むことに等しい。 自分の足で立って、数字だけで叩き伏せたい。 それがずっと守ってきた矜持。けれど。
(……勝ちたい。絶対に、負けたくない)
自尊心よりも、いま必要なのは材料だ。
鬼塚と戦うには、清晴堂というブランドの芯まで理解しないと届かない。 感情なんて、本当はどうでもいい──今だけは。深く息を吸い、私は彼を真正面から見た。
「……でも、助けてくれるというなら、店を見せてくれる?
最初に始めた場所。清晴堂の原点を」晴紀の表情が変わる。驚きが揺れ、ためらいを越えて──
最後に、あの頃と同じ温度を宿した目で、まっすぐ私を見た。七年前、「好きだよ」と言ったときと同じ、あの熱だ。
「……案内する」
一瞬だけ胸の奥がきゅっと鳴った。
(……違う、そんな場合じゃない)
その熱を押し殺すように息を整える。
短い言葉なのに、重く胸に沈んだ。(やっぱり……現地に入らないと)
負けられない戦いの、次の扉が静かに開いた。
***
晴紀の「案内する」と、そのとき向けられた熱い目が、胸の奥でまだ静かに揺れていた。私は小さく息を吐き、紙カップをゴミ箱に捨て、コートの襟を整えながら店の自動ドアへ歩き出した。
外の風に触れた瞬間、さっきまでの会話がまだ体のどこかに残っているのが分かる。
喉の奥にほんの微かな熱──そして同じくらいの警戒。(……会社に戻らないと。その前にDに伝えよう)
彼なら状況をすべて読み切った上で、淡々と的確な一言を返してくるはずだ。
スマホを取り出し、指を滑らせて連絡を入れる。
ほどなくして届いた短い返信は、たった一行だった。『私は仕事の都合でついていけない。
でも──現地を見る判断は正しいわ。 ……ただし、ほだされないようにね』胸がひゅっと縮んだ。
(……見透かされてる)
その言葉が、かすかな痛みと共に心臓の奥に刺さる。
図星すぎて、反論する余地がない。(大丈夫。私は仕事で行くんだから)
そう自分に言い聞かせても、
Dの冷静な一行が胸の奥にじわりと残っていた。歩き出した足が、ほんの少しだけ重い。
(……二人きりで京都? 本当に平気なの?)
晴紀の「案内する」が、仕事以上の響きを持ってまとわりつく。(前とは違う。簡単に揺れたりしない──はずなのに)
風でめくれたコートの襟の下、さっきの会話の熱だけが妙に生々しい。
(ついていけない。でも……気になるのも事実)
私は歩幅を少し早めた。
勝ちに行くため。
それだけのはずなのに。──胸の奥の小さな疼きだけが、否定しきれず残っていた。
「……天野さんが、いてくれてよかった。 前の時も……支えてくれて」 母は、ためらうようにそう言った。 私ではなく、Dに向けての言葉だった。 父は、私の顔を見たまま、短く言う。 「……警察の人も来る。事情を聞かれると思う」 「……うん」 「……口出しはしたくないが。 あの会社――清晴堂とは、もう終わりにした方がいい。 朱音は……そこまで背負う立場じゃないだろう」 父から見ればそうだろう。 私はリュエールの社員で、清晴堂からみれば委託のマーケティング責任者。 ――だけど。 私が考えていると、母は、何かを言いかけて――やめた。 代わりに、ただ、私の手を強く握った。 「……朱音。無理しないで。お願い」 母はそれ以上言わなかった。 言わないのに、伝わってしまう。 (……みんな、あなたが正しいって思ってる) Dの存在が、病室の空気を変えている。 安心が、目に見える形になっている。 両親は長くはいなかった。 仕事の連絡が入ったらしい。 帰り際、母がもう一度だけDを見る。 「……また、来るね。ありがとう」 Dは短く頷いた。 扉が閉まった瞬間、病室は急に広くなった。 私とDだけ。 窓の外は、淡い朝の光。 カーテン越しに、世界がまだ普通に回っているのが分かる。 私は、天井を見たまま言った。 「……みんな、あなたが正しいって思ってる」 Dは、すぐに返事をしなかった。 数秒。 その沈黙が、優しかった。 「……私は、正しいとか、間違ってるとか、どうでもいい」 Dの声は低い。 「朱音が、決めることだわ」 その言葉に、胸の奥が震えた。 決める。 誰かに決められるのではなく。 誰かに寄りかかるのでもなく。 私が選ぶ。 私の中で、ずっと先送りにしてきた場所に、光が当たる。 私はゆっくり顔を向けた。 Dは、いつも通りの顔をしているのに―― 目だけが、疲れている。 そして、怖がっている。 私が死ぬのが怖かった顔だ。 それが、胸に刺さる。 「……ねえ」 声が、かすれた。 「昨日、来てくれたの……ありがとう」 Dは一瞬、目を伏せた。 「礼はいらない」 「……いるよ」 私がそう言うと、Dの口元がわずかに動い
目を開けた瞬間、いちばん最初に鼻を突いたのは、消毒液の匂いだった。 白い天井。白いカーテン。規則的な電子音。 点滴のチューブが腕に繋がっているのを見て、ようやく――現実が追いつく。 ……撃たれた。 左肩の奥が、鈍く熱い。 痛みは鋭くない。 けれど、じわじわと体の中心まで染みてくるような感覚があった。 息を吸う。 胸が少しだけ痛む。 (……生きてる) ぼんやりした頭で、そう思った瞬間だった。 ベッドの脇の椅子が、かすかにきしんだ。 視線を動かすと、そこに――Dがいた。 黒いコートを脱いだまま、椅子に深く腰を落としている。 髪はいつもより乱れていて、まつ毛の影が濃い。 眠っていたのか、起きていたのか分からない顔で、私を見た。 ほんの一拍。 Dの目が、確かにほどけた。 「……目が覚めた?」 声は落ち着いている。 いつもの、冷静なDの声。 だけど、その奥にある息の浅さが、隠しきれていなかった。 「……うん」 声が出る。 喉が少し乾いている。 それだけで、なぜか泣きそうになる。 Dは立ち上がろうとして――動きが一瞬だけ止まった。 指先が、わずかに震えている。 それを見てしまって、胸の奥がきゅっと縮む。 「人を呼ぶわ」 短く言って、Dはナースコールに手を伸ばした。 ボタンを押す指が、必要以上に丁寧だった。 私は、天井を見上げる。 頭の中に断片が戻ってくる。 銃声。 火薬の匂い。 悠斗の手の震え。 晴紀の怒鳴り声。 ……そして。 私の名前を呼んで、崩れたDの顔。 (この人……こんな表情するんだ) あの瞬間の衝撃が、まだ胸に残っている。 ナースが入ってきて、目覚めた確認と痛みの程度、出血の状態を淡々と確認する。 Dはその横で一言も挟まず、ただ必要な情報だけを短く返していく。 無駄がない。 いつも通りだ。 けれど、私は気づいてしまった。 Dの目が、一度も私から離れない。 医療者の手元ではなく、傷ではなく。 私の顔だけを見ている。 ナースが出ていくと、病室に静けさが戻った。 Dは、しばらく私を見ていた。 視線を逸らさず、まるで、まだ現実を確かめているみたいに。 それから、ゆっくりと手
「なんでだああああああああ!!」 坂東の絶叫が、夜を引き裂いた。 目は血走り、理性の色が、もうどこにも残っていない。 震える手が、前に突き出される。 ——黒い拳銃が握られている。 月明かりを吸い込むような、無機質な金属。 それが「人を殺す道具」だと、考えるまでもなく分かる。 「信じた……っ」 かすれた声が、今度は憎悪を帯びる。 「あんたを信じたから……俺は……!」 銃口が、ふらつきながらも確かに向けられる。 ——悠斗のほうへ。 だが、その動きが、わずかに止まった。 指が引き金にかかったまま、震えている。 押せば、すべてが終わる。 それを、本人がいちばん理解している顔だった。 ——その瞬間。 悠斗の背後。 視界の端で、誰かが動いた。 低く、速く、壁伝いに——晴紀だ。 坂東の意識は、完全に悠斗に向いている。 今なら、届く。 銃を奪えるかもしれない。 (今……今なら——) その瞬間、坂東の視線がわずかに揺れた。 引き金にかかった指が、ぎゅっと強張る。 ——まずい。 考えるより先に、身体が動いた。 「……っ!」 私は、悠斗の前に踏み出していた。 その先は、言葉にならなかった。 銃口が揺れる。 坂東の喉が、小さく鳴った。 そして、震える指が—— 引き金を、絞り込む。 パンッ!! 銃口から短いオレンジの閃光が爆ぜ、坂東の顔を一瞬照らす。 反動で細い腕が跳ね上がり、銃身が大きく仰け反った。 気づいたときには、私は悠斗の前に立っていた。 次の瞬間、胸の奥を強く押されたような衝撃があった。 まるで誰かに突き飛ばされたみたいに、体がわずかに後ろへ揺れる。 息が、一瞬だけ抜けた。 ——あれ? 視界が、わずかに揺れる。 遅れて、じんわりとした熱が左肩口から広がっていった。 最初はただの熱だった。 けれど、それはすぐに、焼けた針を刺されたような鋭い痛みに変わる。 ゆっくりと自分の肩を見る。 白いブラウスに、赤がにじんでいた。 小さな染みが、みるみる広がっていく。 布地が、静かに暗く染まっていく。 温かいものが、肩から腕へ伝う。 血の匂いと、火薬の焦げた匂いが混じって、鼻を突いた。 …
私たちは、ほとんど言葉を交わさないまま、国道をゆっくりと走っていた。 ヘッドライトが、路肩と森の境目を、丁寧になぞっていく。 そのときだった。 ライトの先、木々の影がわずかに揺れた。 私は、思わず身を乗り出す。 「……今……」 言いかけた、その瞬間だった。 影の中から、人影が、はっきりと前へ出てきた。 ——躊躇いが、ない。 ふらつきながらも、こちらをまっすぐ見ている。 まるで、最初から「この車」を探していたみたいに。 街灯の下に出た、その横顔を見た瞬間、胸が詰まった。 「……悠斗さん」 声が、勝手に漏れた。 隣で、空気が変わる。 晴紀が、何も言わずにドアを開けた。 外に出た瞬間、彼はもう、走っていた。 「悠斗!」 名前を呼ばれた瞬間、悠斗の足が止まる。 一瞬だけ、表情が抜け落ちたようになって—— 次の瞬間、感情が追いついたみたいに、顔がくしゃりと歪んだ。 ……泣きそうな顔だった。 晴紀は、そのまま距離を詰め、強く腕を伸ばす。 抱きしめた、というより、逃がさないように引き寄せた動きだった。 悠斗の身体が、わずかに揺れる。 それでも、振りほどかない。 遅れて、ぎゅっと、晴紀の背に指が食い込む。 私は、ただ、その光景を見つめていた。 胸の奥が、ひどく静かだった。 ——ああ、やっと、会えたんだ。 晴紀は、悠斗の肩に額を寄せたまま、低く言った。 「……迎えに来た」 声が、わずかに震えていた。 悠斗は、何も言わない。 ただ、離れなかった。 その空気が、あまりにも静かで、あまりにも安らかで—— だからこそ。 「……はは……」 背後から、乾いた笑い声がした。 振り返った瞬間、そこに立っていたのは坂東だった。 ふらつく足取り。 焦点の合わない目。 その手に握られているのが、銃だと理解した瞬間、背筋が凍った。 悠斗が、ゆっくりと晴紀から身を離す。 「……坂東さん」 その声は、驚くほど穏やかだった。 「……落ち着いてください」 その言葉に、坂東の表情が、わずかに歪む。 「……落ち着け……?」 喉の奥で、ひきつったような笑いが漏れた。 「……あなたに、そんなこと……言われたくな
別荘の裏手、林の影に身を潜めたまま、私は動けずにいた。 建物の中は暗い。 灯りはほとんど消えているのに、なぜか「誰もいない」とは思えなかった。 空気が、張りつめている。 ——いる。 そう感じた直後だった。 裏手の小道に、男が二人、月明かりの中に現れた。 思わず息を止める。 隣で、晴紀の気配が変わった。 「……坂東だ」 声は、ほとんど息に近いほど小さい。 「不正をやってた……経理部長」 名前を聞いた瞬間、胸の奥がぞくりとした。 大胆に不正を重ねていたはずの男がここまで追い詰められた姿を想像していなかった。 坂東は、うつむいたまま立っていた。 向かいの男が、低い声で吐き捨てる。 「……なんで逃がした」 坂東の肩が、わずかに揺れた。 「……わざとじゃ……ありません……」 かすれた声だった。 男は短く舌打ちする。 「言い訳はいい」 一歩、距離が詰まる。 「見つけたら……始末しろ」 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 坂東が顔を上げる。 「……それは……」 でも、男は答えを許さなかった。 「できなきゃ、死ぬのはお前だ」 淡々とした声だった。 だからこそ、冗談じゃないと分かる。 次の瞬間、男の手が動いた。 黒いものが、坂東の手に押し込まれる。 私は、それが何かをはっきりとは見ていない。 でも、見なくても分かってしまった。 坂東の手が、目に見えて震えている。 男は、低い声でいくつか言葉を落とした。 説明というより、命令。 あるいは、押しつけ。 坂東は、ただ小さく頷くだけだった。 「……探せ」 それだけ言って、男は背を向ける。 坂東も、少し遅れて歩き出した。 別の方向へ。 二人の足音が、闇に溶けていく。 ——気づけば、林には私たちだけが残っていた。 私は、ようやく息を吐いた。 胸の奥が、ひどく冷たい。 隣を見ると、晴紀は目を閉じていた。 ほんの一瞬だけ。 祈っているのか、考えているのか、わからない。 でも、その沈黙があまりに重くて、私は何も言えなかった。 やがて、彼はゆっくりと目を開いた。 「……悠斗は逃げたみたいだな」 低い声だった。 でも、迷いはなかった。 私は、小さく息を吐
「だから……あなたが一人で傷つく選択をするのは、受け入れられない」 長い沈黙。 やがて、晴紀が小さく息を吐いた。 「……大事な人、か」 その言葉を、確かめるように繰り返す。 それから、前を見たまま、低く言った。 「……俺はさ」 一拍、間があった。 「誕生日に、予約を勝手にキャンセルして。 プレゼントを……あの場で、ゴミ箱に捨てた」 ハンドルを握る指が、わずかに強くなる。 「……目の前で、いずみに……奪われてるのを見せた。 ……あれで、お前の人生を、壊した」 声は静かだったけれど、逃げ場がなかった。 「……それでも……それだけのことをして……」 ほんのわずかに、声が揺れた。 「……朱音は……俺のことを大事な人って言ってくれるのか?」 私は、すぐには答えられなかった。 だからこそ、言葉を選ぶ。 「……覚えてるわ」 静かに言った。 「全部。 一生、忘れないと思う」 晴紀の喉が、わずかに動く。 私は続けた。 「でも……だからって、過去が続くわけじゃない」 そっと、彼の手に指を絡める。 その体温が、思ったよりも冷えていて、胸が詰まった。 「私は今のあなたを見てる。 いずみさんとも。清晴堂とも。私とも。 逃げないで、ちゃんと向き合おうとしてるあなたを」 ほんの少しだけ、声を和らげた。 「……赦した、って言葉は、たぶん違う」 しばらく沈黙。 やがて、晴紀が低く息を吐いた。 「……それでも……」 ほんのわずかに、声が揺れる。 「……Dのことは?」 私は、一瞬、言葉を失う。 「……お前には、あの人がいるだろ」 前を見たまま、淡々とした声だった。 でも、その奥にある感情は、痛いほどわかってしまった。 「……俺は、もう、選ぶ資格なんてないから」 車内に、重たい沈黙が落ちる。 私は、すぐには答えない。 答えられない。 ——まだ、自分でもわからないから。 ワイパーの音が、静かに続く。 高速の光が、二人を照らす。 まだ、何も終わっていない。 でも、今、この瞬間―― 二人分の覚悟が、確かに重なっていた。 *** 森は、夜よりも深かった。 悠斗は、ほとんど反射で走っていた。 考えるより先に、身体が動いていた。